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【読書備忘録】 向承周『説苑校證
向宗魯説苑校證中華書局、中國古典文學基本叢書、1987

■『説苑とは..

『説苑』(ぜいえん)とは、前漢末の劉向が当時、漢の祕府に収められていた「説苑」という書物をベースに、先行する断片的な説話を集めてテーマごとに再整理した説話集です。劉向の末子の劉歆(りゅうきん)が編纂した『七略』(しちりゃく)という当時の宮廷蔵書目録に、『説苑』は単独では登場しませんが、『新序』・『列女傳』・『世説』等と共に一括して「劉向所序六十七篇」として著録されています【注1】。これら四種の書物を一括していることから、「所序」とは複数の単行本を収録した「叢書」の意であるとする説もありますが【注2】、『新序』・『説苑』・『列女傳』の体例を見る限りにおいては、「類を以て相從はしめ」たもので【注3】、先行する断片的な説話を「君道」「臣術」といったテーマごとに分類して「序」して(≒ならべて)いったものが「所序」であると見なすのが妥当でしょう。ちょうど内藤湖南が「類書的」と評しているのが、「所序」の意味を的確に捉えていると言えます【注4】。六朝時代の劉義慶の『世説新語』などは、恐らく劉向の『世説』の体例に則って作られた説話集なのでしょう。劉向の『世説』が現存しないので、確かなことは言えませんが、『世説新語』もやはりテーマごとに説話が分類されています。

【注1】 【出典】:『漢書』藝文志(げいもんし)・諸子略・儒家。
『漢書』藝文志は、劉歆の『七略』を基に制作されています。
【注2】 【出典】:野間文史「新序・説苑攷 ― 説話による思想表現の形式 ―」(《廣島大學文學部紀要》35、1976)
【注3】 【出典】:劉向「説苑序録」。
文字数としては僅かですが、『説苑』には劉向がつけた「序録」(目次と解題)が残っています。
【注4】 【出典】:『支那史學史』(弘文堂書店、1949)
 (*のち平凡社・東洋文庫、筑摩書房『全集』に再録。)
「元来支那で類書がその兆候を表したのは、まづ前漢の頃からである。勿論当時目録家の方に類書といふ考はなかったが、類書体で著述することが行われていたのである。殊に劉向の著述がさうであって、彼の新序・説苑・列女傳は皆ないくらか類書的に編纂されている。」

向宗魯(承周)の学問と略歴

『説苑校證』の著者向宗魯(しょうそうろ)氏は、名を承周といい、清末に四川省巴県で生まれた人物です。若い頃、成都に遊学して、当時廖平(りょうへい)が校長を務めていた存古學堂に入りました。廖平(字は季平)は、かの康有爲に影響を与えた清末の今文(きんぶん)(公羊(くよう))学者として知られている人物です。のちに康有爲の弟子の梁啓超が暴露してしまいますが、前漢経学の主流たる今文経典が全て孔子の真筆にかかると論じた康有爲の『孔子改制考』は廖平の『知聖編』に基づき、また前漢末から後漢にかけて流行した古文経典(『左傳』・『周禮』・『毛詩』等)が全て「新學」―すなわち新の王莽の国師たる劉歆の偽作であると主張した『新學僞經考』は、廖平の『古學攷』(『闢劉編』)に基づいていると言われています。廖平自身は立場主張が生涯六変したと自認する変わり種ですが、彼の『今古學攷』は今古文経学の特徴を非常によく捉えて整理したものとして評価されています。【注1】

漢代の経学を学ぶ者にとって「今文」「古文」は避けられない問題ですが、「今文」「古文」は、元来は伝承形態の違いからくるテキスト(経文)の相違の問題に過ぎません。今文経は口伝から「今文(漢代の隸書)」に書き起こしたテキストを指し、古文経は秦の焚書の禍を乗り越えて壁中などから出現した「古文(先秦時代の古字)」で書かれたテキストを意味します。ところが経書は儒教一般においては聖人の「微言大義」が散りばめられた聖典とされていますから、一字一句が違っただけでも、経文の解釈は大きく割れてしまいます。このような経緯で「今文学派」とか「古文学派」、或いは「今文経」や「古文経」といった別ができてしまう訳です【注2】。後漢以降はこのうちの古文学の系統を引く経学が主流となっていきますが、清朝に入って莊存與(そうぞんよ)を始祖とする常州公羊学派【注3】が登場してから、経世致用の学問として前漢の今文学が見直されていきます。廖平や康有爲もそうした時流に乗った清末の代表的な今文家の一人です。今古文問題も清朝公羊学もなかなか一言では説明しきれないものがありますが、込み入った話はまたの機会にして、とりあえず話を本筋に戻します。

ともあれ向宗魯氏は、当時今文学者として名を馳せた廖平の元で学問に励みます。今文(公羊)学の真髄は「経世致用」にありますが、今ひとつの特技として「輯佚学」が挙げられます。今文家が挙げる今文説の多くは、『公羊傳』の説を除けば早くから亡佚してしまって書物の形としては残っていません。そこで今文家は、往々にして、漢や魏晉の古い文献から今文説を発掘して輯本としてまとめることから始めています。この点に関しては、孔廣林『通徳遺書所見録』や陳壽祺『尚書大傳定本』、皮錫瑞『駁五經異義疏證』等、各々の見識と博覧を活かした優れた編著が数多く輩出されていることによっても明白でしょう。逆に今文(公羊)学は、経世致用を追究するあまり、実用性を優先させ、学問的な傍証や妥当性に対する荒さがどうしても際立ってしまうという悪い傾向もあります。まして廖平は六変を以て自認するような人物ですから、学問的にも芯が定まらず、殊に不安要素が少なくありません。ところがこの点に関して、向氏が志向したのは、戴震・錢大マ・段玉裁・王念孫・王引之ら、実事求是を重んじた乾嘉樸学の風だったので、廖平の「奇詭の論」を良しとせず、しばしばこれを論難したようです。廖平の方もこれを甚だ賞賛したといいますから、恐らく向氏は他者を納得させるに足るだけの博覧と謹厳さを早くから備えていたのでしょう。

『説苑校證』は、向氏がこの廖平の存古學堂を卒業した後、漢口で10人ほどの子女を相手に家庭教師をしていた1922〜1931年の間に著されたものといいます。彼が1941年に四川省峨眉にて46歳の若さで卒去したというのは何とも惜しいことです。(以上、略歴は門弟・屈守元氏の序文による。)

【注1】 廖平については、小島祐馬『中國の社會思想』(筑摩書房、1967)が詳しい。手軽な概要としては狩野直喜『中國哲學史』(岩波書店、1953)がある。

「廖平の方では康が取つたと云ひ、康の方では取らぬと云ひ、兩方から喧嘩をして居るが、どうも(康が)取つた方が事實らしい。」(『中國哲學史』654頁)

猶、康有爲の自伝ともいうべき『康南海自編年譜』(中華書局、康有爲學術著作選、1992)には、この辺りの経緯はおろか、廖平との関係にすら全く言及されていない。
【注2】 廖平『今古學攷』の今古學宗旨不同表に今文・古文学の要を得た特色が整理されている。その一部を抜粋して以下に掲げる。
 
今文学 古文学
始祖 孔子 周公
信奉聖典 『禮記』王制 『周禮』
六経作者 孔子 古えを学ぶ者が古史を潤色
重点 質を重んじ、革命の魯に因る 文を重んじ、周に従る
本質 経学家(経世致用) 史学家(実事求是)
前漢時 博士に立てられた 民間で行われた
【注3】 常州公羊学派については様々な著作があるが、比較的まとまったものとしては、濱久雄『公羊学の成立とその展開』がある。前掲の狩野直喜『中國哲學史』にもまとまった説明があり、共に参照されたい。
今文学と考証学の方法論の融合

前項で紹介したように、向宗魯氏は乾隆・嘉慶期に全盛を見せた考証学の風を好みながら、廖平の存古學堂にて今文公羊学を学んだ人物です。その彼をして前漢末の劉向によって編纂された『説苑』の注釈をせしむるとどのようになるのか、象徴的な一例を挙げて紹介してみたいと思います。

齊の宣王、尹文に謂ひて曰く、「人君の事は何如」と。

尹文對へて曰く、「人君の事は、爲すこと無くして而も能く下を容る。夫れ事寡ければ從り易く、法省けば因り易し。故に民、政を以て罪を獲ざるなり。大ひなる道は衆を容れ、大ひなる徳は下を容る。聖人は爲すこと寡くして而も天下理まるなり。《書》に曰く、『睿、聖と作る』と。詩人曰く、『岐に夷の行ひ有り、子孫其れ之れを保たん』」と。

宣王曰く、「善し」と。(君道篇)

上に掲げた齊の宣王と尹文子の対話は『説苑』君道篇から抜き出した一章です。「人君として行うべき事(まつりごと)とはどんなものか」との宣王の問いに対して、尹文が「聖人とは最小限の政策しか行わなくとも天下が治まるもの」と「無為の治」を勧める内容となっています。ここで尹文は『尚書』洪範の文を引いて「睿、聖と作る」と傍証している訳ですが、さてこの洪範の文、一体、どういう意味なのでしょうか。

従来の日本の訳本では、伝統的な『尚書正義』(拠阮元校南昌府學覆宋本十三經注疏。所謂「古文尚書」の孔穎達正義)の説を引いていることが多いようです。因みにその孔伝(孔安國の解説)では、「睿」は「必ずや微に通ず」とあり、また「事に於て通ぜざること無し、之れを『聖』と謂ふ」とあります。つまり、「微かな細かい点に至るまで精通していないものがない」という状態が「聖」ということになります。ところが、この解釈では「事寡ければ從り易く、法省けば因り易し」という文脈との相性が良くなく、あまりしっくりときません。微かな点にまで精通しているなら、細やかな点にまで配慮(法令・政策)が行き届きそうなものです。

ここで向宗魯氏は洪範の文を伝統的な『尚書正義』(古文説)ではなく、『漢書』五行志(今文説)を使って解釈しています。向氏の注では既知のこととして特に説明されていませんが、これは『漢書』五行志が劉向の洪範五行傳』を基にして制作されていることに拠ります。資料的にもまさに絶妙の選択と言えるでしょう。因みに『漢書』五行志は、『白虎通』などと共に漢代今文説の宝庫として、清朝の今文公羊学者に好んで用いられます。劉向も実は今文(穀梁)学派の人で、五行志では今文説を用いています。

まず向氏は、『今文尚書』の経文は「睿作聖」ではなく「作聖」と、「睿」を「容」に作るので、『説苑』の本章の文も「容」に改めるべきだといいます。これで「大ひなる道は衆をれ、大ひなる徳は下をる」とも連係が取れます。また五行志(劉向説)に、「容は寛なり。上、寛大ならずして、臣下を包容すれば、則ち聖位に居る能はず」とあるのが、まさに『説苑』のこの箇所の文意に対応していると解き明かしています。つまり、この章で傍証として用いられている『(今文)尚書』の「睿作聖」とは、「寛容なものが聖人となる」という意味になる訳です。これで、先述の「事寡ければ從り易く、法省けば因り易し」という文脈とも符節を合わせたように見事に合致するようになります。(このように古文説と今文説では、かたや「微細」、かたや「寛大」というように、同じ経文でも全く対照的な解釈を行うことがしばしばあるので、漢代の文献を読む時には充分留意する必要があります。)

ここで挙げたような、今文学と考証学のノウハウの絶妙な融合は、乾嘉の学風を好みながら廖平より今文学を学んだ向氏ならではのものと言えるでしょう。そのいずれが欠けても、恐らくこのような注を育むとは考えにくいものがあります。向氏の『説苑校證』には、このような類例が随所に見受けられ、『説苑』から漢人の思想を汲み取るのに、この上ない方法を提示しています。このような考証学と今文学のノウハウを折衷した方法論を用いた注釈書には、陳立『公羊義疏』・『白虎通疏證』をはじめとして幾つかありますが、向氏の『説苑校證』もその中に組み込まれてしかるべき著作と言えるでしょう。

初版:2003,1,1
第4版:2003,1,6
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制作・著作:秋山 陽一郎
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