西安市文物保護考古所は6月20日、西安市北郊の文景路にある前漢墓より、青銅器や陶器と共に、出土した青銅器の中から26kg相当の青緑色の古酒を発見した。古酒の保存状態は極めて良好で、青銅器の蓋を開けると酒の芳香が漂うとのこと。後に発表された分析結果によると、この古酒のアルコール含有量(というより残存量)は0.10%、青銅の器から溶け出した銅の含有量は
1kg当たり 1,800mg という。[以上、情報筋 1]
7月12日に西安市文物局、並びに同文物保護考古所が中国国内の専門家を西安市内に呼んで行った検討会の結果、同墓から出土した古酒は穀物を発酵させた醸造酒で、関中の名酒「白薄酒」ではないかと推定された。因みに「白薄」の酒は、前漢の鄒陽の《酒賦》に登場する(前漢末劉歆の《漢書》百巻の残余を晋の葛洪が編集したとされる《西京雜記・巻下》に収録されている)。このことから、検討会に参加した約30名の専門家(詳細未詳)は、この古酒の主が文帝〜武帝期のかなり高貴な人物のものであるとの見解で一致したという。
[以上、情報筋 2/3]
鄒陽爲《酒賦》、其詞曰、「清者爲酒、濁者爲醴。清者聖明、濁者頑騃。皆麴湒丘之麥、釀野田之米。倉風莫預、方金未啓。嗟同物而異味、歎殊才而共侍。流光醳醳、甘滋泥泥、醪釀既成、緑瓷既啓。且筐且漉、載莤載齊、庶民以爲歡、君子以爲禮。其品類、則沙洛渌酃・烏程若下・高公之清・關中白薄・青渚縈停・凝醳醇酎・千日一醒..。」
向新陽・劉克任氏の『西京雜記校注』によれば、「沙洛」(「桑落」の転訛?)・「渌酃」・「烏程」・「若下」・「高公之清」・「白薄」などは、いずれも酒の名称を指すという。(下掲、「白薄酒小考」参照。)
この古酒が出土した西安文景路漢墓の墓主について余説が出ている。出土地付近の蕭家村に伝存している明の嘉靖期の蕭澧涯なる人物の墓誌に「其居西清街者尤顯著、世傳以爲侯之後(其の西清街〔現在の蕭家村〕に居る者は尤も顯著にして、世々傳へて以て侯〔蕭何?〕の後と爲す)」とあり、前漢の蕭何が高祖に封ぜられて以来、この地が蕭氏歴代の居住地であったとして、蕭何の子孫の墓であろうと7月15日付の『北京娯楽信報』が紹介しているのである。しかし蕭何が封ぜられた酇国は、《漢書・地理志》では南陽郡に属しており、長安からは 400km 以上も離れている。このことから、仮に蕭家村の蕭氏が本当に蕭何の末裔であったとしても、必ずしもこの墓の主が蕭何の血縁者であるとは限らない。
猶、蕭家村の古老・蕭富英氏(71)の談によれば、解放前、付近には地元の人が「梅花冢」と呼んでいた五つの墳丘があったという。これらの墳丘は解放後に平地にされてしまったが、今回古酒が発見された墓はそのうちの一つと見られている。これが事実であるなら、他の四つの古墓に墓主を特定する手がかりがあるかも知れない。[以上、情報筋 4]
(2003,7,30 改訂2版)
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