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戦国紀年概説〔八〕:暦の相違による錯誤

おことわり

暦の話ほど、門外漢にとって苦しいテーマはありません。一体、暦というのは、洋の東西を問わず、天文・歴史・哲学・数学といった幅広いジャンルを修めていないと議論が出来ないものです。無論、齋主がそのような該博な素養を持ち合わせている訳もなく、本項の話もほとんど齋主が戦国紀年の乱れを理解する上で最低限必要であろうと判断したものに絞られています。願わくは、その道の方にご批正、ご教示を賜ることができれば幸いです。

■戦国時代に関する史料

『春秋』を読もうとする時、隠公元年の冒頭でいきなり厄介な問題に直面します。

隱公元年、春王の正月…

『左伝』にしろ『公羊伝』にしろ『穀梁伝』にしろ、ここで必ず「王の正月」という表現が問題にされます。「王の正月」とは一体何なのでしょうか。同所の『左伝』には「元年春、王の周の正月」とあり、また『公羊伝』には次のようにあります。

元年とは何ぞや、君の始年なり。春とは何ぞや、歳の始なり。王とは孰れの謂か、文王を謂ふなり。

すなわち、「王の正月」とは、周王朝の正月を指し(『公羊伝』ではより具体的に、周の文王が受命に際して奉じた正朔とする)、魯公の正月と区別されているのが分かる訳です。このことからも明らかなように、周代(特に東周期)では、王室と諸侯の間で異なる暦が使われていました。【注1】

このことは戦国時代にも言えることで、例えば秦や魏、楚などでは各々異なる暦を使っていたこともわかっています。 【注2】こうした各国諸侯が用いた異なる暦も戦国紀年の混乱に少なからざる影響を与えていることが既に判ってます。

■三代の暦 ― 夏正・殷正・周正 ―

1年を12ヶ月に割るのは、1年にだいたい12回月が満ち欠けするためですが、ちょうど木星の公転周期が約12年(11.86年)であることに気付いた古代の人は、この木星を「歳星」と呼んで、その運行を注視しました(これを木星紀年法といいます)。【注3】暦は普通、冬至を基準に作成されます。そこで冬至の月の歳星木星の位置を建子」として、これを基準とします。伝説では夏・殷・周はそれぞれ独自の暦を用いていたと言われていますが(実際には様々な問題を孕んでいて一概には語れません)、この建子の月(冬至月)を正月とするのが「周正」(周の正月)、その翌建丑の月を正月とするのが「殷正」、更に冬至月の翌々月を正月とするのが「夏正」であると伝統的に解釈されていました。【注4】(下表参照。)

そこで先ほどの『春秋』の「王の正月」というのが、いわゆる「周正」で、魯国の暦が別に存在したのだろうとされてきた訳です。現在では、暦的にはむしろ夏正なのではないかとする意見もありますが、いずれにしろ、魯の暦と周の暦が区別されていることは間違いありません。

■『竹書紀年』の出土と魏の暦

戦国時代の暦については、先刻も触れた通り、秦・魏・楚のものが明らかになっています。このうち特に重要なのが魏で、これは晋の太康年間に汲郡から出土した『竹書紀年』(「戦国紀年概説〔三〕」参照)によって明らかになりました。『竹書紀年』自体は現在亡びてしまって、その佚文しか伝わりませんが、ちょうどその頃、『春秋經傳集解』を書いていた晋の杜預の後序に、

周家臺秦牘二世皇帝元年暦譜

(c)中国文物データセンター

皆、夏正を用ひて、建寅の月を歳首と爲す。…蓋し魏國の史記なり。《春秋經傳集解・後序》

とあることによって、魏が建寅の月(冬至月の翌々月)を正月歳首とする「夏正」を用いていたことが判っています。魏は七雄の中心に位置し、殊に紀年の乱れの甚だしい斉の記事を修正するのに重要な役割を果たしていることは、多くの研究者が指摘する通りです。

■秦の十月歳首暦 ― 顓頊【せんぎょくれき】 ―

さて、三代の暦より更に新しい「顓頊暦」(せんぎょくれき)という暦を用いていたのが秦です。この顓頊暦は、基本的には夏正がベースになっていますが、顓頊暦の方は10月を歳首―つまり一年の始めの月を10月としている点が大きく異なります。ちょうど、現在、我々が年度の始めを4月に置いているのを思い起こすと理解しやすいかもしれません。この暦は漢の武帝の太初暦が作られるまで、秦漢両王朝の正式な暦として用いられました。秦始皇本紀や前漢の武帝以前の諸本紀を見ると、ちゃんと10月に年が改まっていることが分かるはずです。

猶、右に掲げたのは湖北省荊州関沮周家台30号秦墓より出土した、秦の二世皇帝元年(前209)の暦を記した木牘です釈文。一見して判るように、十月で始まり、九月で終わっています。一月に当たる部分が「正月」ではなく「端月」と書かれているのは、一般に秦の始皇帝の諱である「政(正)」を避けたためと言われています。

■歳首のずれが年代のずれに..

ここで先刻の『竹書紀年』が「建寅」の月を正月とする「夏正」を用いているという記述をもう一度思い出して下さい。この2つの暦を単純に比較すると、歳首月に3ヶ月(実はこれに閏月を考慮に入れると最大で4ヶ月)もの開きが出てきます。(下表参照。)

歳星の位置 建亥 建子 建丑 建寅 建卯 建辰 建巳 建午 建未 建申 建酉 建戌
周正 12 正月 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11
殷正 11 12 正月 2 3 4 5 6 7 8 9 10
夏正 10 11 12 正月 2 3 4 5 6 7 8 9
顓頊 10 11 12 正月 2 3 4 5 6 7 8 9
楚正 正月 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
← 最大3ヶ月ずれる → (※…歳首月、…冬至月。)

この3ヶ月の歳首月のズレは、都合の悪いことにちょうど農閑期である冬にぶつかります。実際に六国年表や秦本紀をご覧頂ければ解ると思いますが、一般に年譜資料や年代記において、最も記載頻度の高い記事が戦役と天災或いはその予兆です。その内、戦争に関する記事が農閑期に頻出することは容易に察しがつくでしょう。暦の違いが斯くも大きな問題として取り上げられるのは実にこのためです。別項の踰年改元の問題と絡めると、1、2年程度のズレは容易に起こり得る訳です。

但し、この暦の議論にも部分的ながら、問題がない訳ではありません。以前、紹介した六国年表の序文に、司馬遷の依った『秦記』という書物の特徴として、「日月を載せず」というのがありました。その言が示すように、顓頊暦…すなわち10月歳首暦がいつ頃から秦で採用されたのかが今ひとつはっきりしないのです。また依然として紀年の混乱が著しい斉をはじめとする他の諸国の暦も明らかになっていません。これらの問題の解決については、幸いにして出土確率の高い暦資料の出土に今後の展望を委ねたいと思います。

【注1】 既に「隹れ(これ)王の○年..」という書式は一般的ですが、諸侯独自の暦の存在についても、金文資料で注目すべき表記が散見します。手近なところで、楊伯峻(《春秋左傳注・隱元》)が挙げるところの具体例に、「唯れ(これ)鄀正の二月初吉乙丑」《鄀公簋》や、「ケ八月」(《左傳注》原文「ケ國器」)というのがあります。
【注2】 後述の秦の顓頊暦(せんぎょくれき)、魏の夏正のほかに、楚の暦(しばらく平勢氏の呼び方に拠って、以下、仮に「楚正」としておきます)の概要が、近年相次ぐ楚地の出土資料によって判ってきています。
【注3】 木星紀年法には決定的な欠点があります。つまり、木星の公転周期が約12年(11.86年)であって、正確に12年でないことです。これによって生じる紀年の問題も当然ありますが、ここでは特に深追いはしません。後掲の参考書を参考にしてください。
【注4】 《史記・暦書》に、「夏正は正月を以てし、殷正は十二月を以てし、周正は十一月を以てす。蓋し三王の正、循環するが若く、窮すれば則ち本に反る」とあり、夏殷周がそれぞれ建寅・建丑・建子の月を正月とした別々の暦を使っていたと記されています。これを天地人の三統に当てて一元としたのが劉歆の『三統暦』で、《漢書・律歴志》に詳細が見えます。
参考書一覧

□新城新藏『東洋天文學史研究』弘文堂(未見)
□飯島忠夫『支那古代史と天文學』恒星社(未見)
□飯島忠夫『天文暦法と陰陽五行説』第一書房(未見)
□ジョセフ・ニーダム『中国の科学と文明』思索社
□藪内清『中国の天文暦法』平凡社(未見)
□藪内清・能田忠亮『漢書律暦志の研究』臨川書店(未見)
□平勢隆郎『新編史記東周年表』東大出版会
□平勢隆郎『中国古代紀年の研究』汲古書院
□川原秀城『中国の科学思想』創文社、中国学芸叢書

※以上の他、こちらのページsuchowan's Home Page)に中国の暦に
関する紹介があります。

初版:2000,3,30
改訂2版:2002,5,6
改訂3版:2002,9,6
改訂4版:2002,9,17
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制作・著作:秋山 陽一郎
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