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戦国紀年概説〔三〕:《竹書紀年》の発見

■杜預《春秋經傳集解後序》訳注(上)

ここでは西晋の太康初に出土し、それまでの《史記》の記事や年代に大幅な修正を迫ることになった、戦国時代・魏国の年代記―通称「竹書紀年」の発見時の様子を内容を、同時代人である杜預(どよ)の証言を通して概観してみたいと思います(かみ砕いた説明は別途用意することとして、この訳注では若干専門的な注釈を付けています)。

原文(據清嘉慶阮元南昌府學本春秋左傳正義)

太康元年三月、寇始平、余自江陵還襄陽、解甲休兵、乃申杼舊意、脩成《春秋釋例》及《經傳集解》。始訖、會汲郡 汲縣、有發其界内舊冢者、大得古書。皆簡編科斗文字。發冢者、不以爲意、往往散亂。科斗書久廢、推尋不能盡通。始者藏在祕府、余晩得見之、所記大凡七十五卷、多雜碎怪妄、不可訓知、《周易》及《紀年》最爲分了。《周易》上下篇、與今正同、別有《陰陽》説、而無〈彖〉・〈象〉・〈文言〉・〈繋辞〉。疑于時仲尼造之於魯、尚未播之於遠國也。其《紀年篇》、起自夏・殷・周、皆三代王事、無諸國別也。唯特記晉國、起自殤叔、次文侯・昭侯、以至曲沃 莊伯。莊伯之十一年十一月、魯 隱公之元年正月也。皆用夏正建寅之月、爲歳首。編年相次、晉國滅、獨記魏事、下至魏 哀王之二十年。蓋魏國之史記也。推校哀王二十年、大歳在壬戌。是周 赧王之十六年、秦 昭王之八年、韓 襄王之十三年、趙 武靈王之二十七年、楚 懷王之三十年、燕 昭王之十三年、齊 湣王之二十五年也。上去孔丘卒百八十一歳、下去今大康三年五百八十一歳。哀王、於《史記》襄王之子、惠王之孫也。惠王三十六年卒、而襄王立。立十六年卒、而哀王立。古書《紀年篇》、惠王三十六年、改元從一年始、至十六年而稱「惠成王卒」、即惠王也。疑《史記》、誤分惠・成之世、以爲後王年也。哀王二十三年乃卒、故特不稱諡、謂之「今王」。其著書文意、大似《春秋》經、推此足見古者國史・策書之常也。

訓読

太康元年三月、呉の寇、始めて平ぎ、余、江陵自(よ)り襄陽に還りて、甲(よろい)を解き兵を休め【注1】、乃ち申(かさ)ねて舊意をく杼(く)み、《春秋釋例》及び《經傳集解》を脩成せり【注2】

始めてを訖(お)へ、會々(たまたま)汲郡汲縣に、其の界内の舊冢をあば發(あば)く者有りて【注3】、大ひに古書を得たり。皆な簡編にして科斗文字【注4】あり。冢を發く者、以て意と爲さず、往往散亂せり【注5】。科斗の書、久しく廢(すた)れ、推し尋ぬれども盡くは通ずる能はず。始めは藏めて祕府に在れども、余、晩(おく)れて之れを見るを得たり。

記す所、大凡(おおよそ)七十五卷【注6】、多く雜碎・怪妄にして、訓(よ)み知るべからざれども、《周易》及び《紀年》は最も分了爲り。

《周易》の上下篇は今と正に同じく、別に陰陽の説有れども【注7】、〈彖〉(たん)・〈象〉(しょう)・〈文言〉・〈繋辭〉無し。疑ふらくは、時に于(おい)て仲尼之れを魯に造りて、尚ほ未だ之れを遠國に播(し)かざるなり【注8】

其の《紀年》の篇は、夏・殷・周自り起し、皆な三代の王の事にして、諸國の別無きなり。唯だ特に晉國のみを記して、殤叔(しょうしゅく)自り起し、次で文侯・昭侯、以て曲沃(きょくよく)の莊伯に至る【注9】。莊伯の十一年十一月は、魯の隱公の元年正月なり。皆な夏正建寅の月を用ひて歳首と爲す【注10】。編年相次で晉國滅ぶれば、獨り魏の事のみを記し、下は魏の哀王の二十年に至れば、蓋し魏國の史記なり【注11】。推して哀王二十年を校(くら)ぶるに、大歳は壬戌に在り。是れ周の赧王(たんおう)の十六年、秦の昭王の八年、韓の襄王の十三年、趙の武靈王の二十七年、楚の懷王の三十年、燕の昭王の十三年、齊の湣王(びんおう)の二十五年なり【注12】。上は孔丘の卒(しゅつ)を去ること百八十一歳にして、下は今の大康三年を去ること五百八十一歳。哀王は、《史記》に於ては襄王の子、惠王の孫なり。惠王、三十六年にして卒し、而して襄王立ち、立ちて十六年にして卒し、而して哀王立つ。古書《紀年》の篇は、惠王の三十六年にして、改元して一年從り始まり、十六年に至りて、而して「惠成王卒す」と稱すれば、即(すなは)ち惠王なり。疑ふらくは、《史記》誤りて「惠」「成」の世を分ち、以て後の王の年と爲すなり【注13】。哀王は二十三年にして乃ち卒し、故に特に諡(おくりな)を稱せず、之れを「今王」と謂ふ【注14】。其の著書の文意、大ひに《春秋》經に似たりて、此れを推すに、いにしえ古者の國史・策書の常を見るに足るなり。

【注1】 杜預・汲冢書関連地図「呉寇」は、咸寧五年(279)から翌太康元年(280)にかけての晉の呉征伐を指す。この時、杜預は荊州(殊に江陵)方面の都督として指揮を執った。今、《晉書・武帝紀》によって事の次第を簡述すれば以下の通りである。「(咸寧)四年…十一月…辛卯、以尚書杜預、キ督荊州諸軍事」、「五年十一月、大舉伐呉。…鎮南大將軍杜預出江陵、…東西凡二十餘萬」、「太康元年、…二月甲戌、杜預克江陵、斬呉江陵督伍延。…三月壬寅、王濬以舟師至于建鄴之石頭、孫晧大懼、面縛輿櫬、降于軍門。」(※以下、特にことわりのない限り、単に《晉書》と称する場合は、原則として唐修《晉書》(拠中華書局標点本)を指すものとする。)
【注2】
杜預・汲冢書関連年表
泰始6 270 ・《古史考》の譙周卒去。
咸寧4 278 ・杜預、荊州の都督となり、当地の軍権を委ねられる。
咸寧5 279 ・晉、大挙して呉を伐つ。杜預は鎭南大將軍として、江陵征伐の軍を率いる。
・十月、汲郡の不準が旧冢をあばき、中から大量の竹簡文献が出土する。出土した竹簡は官に接収され、祕府に移される。(汲冢書の出土)
太康元 280 ・二月、杜預、江陵の呉軍に勝ち、呉将伍延を斬首。
・三月、建業の孫晧が晉に投降し、呉が滅亡する。
・杜預、江陵より襄陽に帰還。
・この頃、《春秋經傳集解》《春秋釋例》を撰定。
太康3 282 ・杜預、汲冢書を閲読し、《經傳集解》の後序を記す。
太康5 284 ・閏月、杜預卒去。
《晉書・杜預傳》に、「既立功之後、從容無事、乃耽思經籍、爲《春秋左氏經傳集解》。又參攷衆家譜第、謂之《釋例》」とあり、また杜預の《春秋序》(前序)には、「古今言《左氏春秋》者多矣。今其遺文可見者十數家、…預今所以爲異、專脩丘明之傳以釋經、…故特劉(歆)・賈(逵)・許(惠卿)・潁(子嚴)之違、以見同異。分經之年與傳之年、相附比其義類、各隨而解之、名曰《經傳集解》。又別集諸例及地名・譜第・暦數、相與爲部、凡四十部十五卷。皆顯其異同、從而釋之、名曰《釋例》」とある。

猶、後序の内容から察するに、杜預の《經傳集解》《春秋釋例》の成書及び前序の執筆は太康元年(280)、杜預の汲冢書の閲覧とこの後序の執筆は太康3年(282)のことと思われる。杜預はこののち太康5年(284)閏月に卒去する。(※右掲年表参照。)

【注3】 《晉書・武帝紀》は、これを前年の咸寧5年(279)10月に繋けて、以下のように記している。「汲郡人不準、掘魏襄王冢、得竹簡小篆古書十餘萬言、藏于祕府。」この記述によれば、杜預のいう「發舊冢者」は「不準」という名であったことが判る。《晉書》が汲郡の冢を魏の「襄王」の墓としていて杜預の「哀王」説と解釈が異なるのは、同冢より出土した「紀年」― すなわち所謂《竹書紀年》中の魏の「今王」が「惠成王」の次の代にあたることに拠るものであろう(杜預《後序》後文及び【注13】参照)。また《同・束ル傳》では、汲冢書発見を太康2年に繋けて、「或言安釐王冢」という。猶、汲冢の墓主を魏の「襄王」「哀王」ないし「安釐王」とする見解については、既に山田統氏によって、汲郡が地理的に戦国魏の都大梁を遠く隔たり、魏国の前線に位置することなどから疑わしく、実際には魏の卿クラスの人物の墓だったのではないかとする説が提示されている(『山田統著作集』第一巻所収、「竹書紀年と六國魏表」、1960)。
【注4】 「科斗(蝌蚪)」とはオタマジャクシのこと。《莊子・秋水》の陸徳明音義に「科斗、蝦蟇子也」とある。杜預《左傳・後序》正義所引、王隱《晉書・束ル傳》によれば、「科斗文者、周時古文也。其字、頭麤尾細、似科斗之蠱(蟲)。故俗名之焉」と、その画頭が太くぼってりとしていて画末が細い筆勢が、ちょうど「科斗(オタマジャクシ)」に似ていることからついた俗名であるという。清儒閻若璩(えんじゃくきょ)が「杜預時謂『科斗書久廢』則可、孔安國時則不可」(《尚書古文疏證・卷七・言安國大序謂科斗書廢已久本許愼説文序》)と言って、「科斗書」が前漢の孔安國の時の語ではなく、伝存する孔安國の《尚書》大序は魏晋以降の偽作であると指摘したのは著名である。「科斗文字之名、先漢無有也」とする清末の王國維(《觀堂集林・卷七・科斗文字説》)によれば、「科斗文」は、後漢の鄭玄の「書初出屋壁、皆周時象形文字、今所謂科斗書。以形言之爲科斗、指體即周之古文」(《尚書序》正義所引鄭玄《書贊》)をもって初見とするという。
【注5】 《晉書・束ル傳》によれば、「初發冢者、燒策照取寶物、及官收之、多燼簡斷札、文既殘缺、不復詮事」とあり、不準が盗掘時に多くの簡策を松明(たいまつ)として燃やしてしまった模様である。猶、汲冢書の整理校訂に携わった人物の一人である荀勗(じゅんきょく)の《穆天子傳・序》に、「以臣勗前所考定古尺、度其簡長、二尺四寸。以墨書、一簡四十字」とあり、汲冢書は二尺四寸の竹簡に、一簡あたり四十字あったという。
【注6】 汲冢書七十五巻の内訳は《晉書・束ル傳》に見える。以下、その内容を抄録する。

・紀年十三篇。蓋魏國之史書、大略與《春秋》皆多相應。
・易經二篇。與《周易》上下經同。
・易繇陰陽卦二篇。與《周易》略同、繇辭則異。
・卦下易經一篇。似〈説卦〉而異。
・公孫段二篇。公孫段與邵陟
(しょうちょく)論易。
・國語三篇。言楚・晉事。
・名三篇。似《禮記》、又似《爾雅》《論語》。
・師春一篇。書《左傳》諸卜筮、「師春」似是造書者姓名也。
・瑣語
(さご)十一篇。諸國卜夢妖怪相書也。
・梁丘藏一篇。先敍魏之世數、次言丘藏金玉事。
・繳書
(きょうしょ)二篇。論弋射(よくしゃ)法。
・生封一篇。帝王所封。
・大暦二篇。鄒子談天類也。
・穆天子傳五篇。言周穆王游行四海、見帝臺・西王母。
・圖詩一篇。畫贊之屬。
・雜書十九篇。周食田法・周書・論楚事・周穆王美人盛姫死事。

「大凡七十五篇、七篇簡書折壞、不識名題。…漆書科斗文字。…武帝以其書付祕書校綴次第、尋考指歸、而以今文寫之。ル在著作、得觀竹書、隨疑分釋、皆有義證。」

【注7】 「陰陽説」は、前掲【注6】《束ル傳》の「易繇陰陽卦二篇」を指すのであろう。汲冢書は《周易》と易伝・易説の類が比較的多く出土した模様で、ちょうど、《周易》上下經・《繋辭傳》のほか、幾つか未知の易伝数種を同一帛に収めている馬王堆帛書《周易》の状況を想起させられる。
【注8】 この辺りは、所謂易伝「十翼」の孔子制作説に立脚した想定である。《史記・孔子世家》に「孔子晩而喜《易》、序〈彖〉〈象〉〈説卦〉〈文言〉」(※「序」字は、中華書局の標点本にしたがって「序する」意で読んだが、唐の張守節『史記正義』のように、これを「〈序卦〉」の意として読む解釈もある)とあり、これが《漢志・六藝略・易類》に至って、「孔氏爲之〈彖〉〈象〉〈繫辭〉〈文言〉〈序卦〉之屬十篇」と、易伝「十篇」の制作説に発展する。
【注9】 西周末〜春秋初晉系譜以下、《史記・晉世家》における関連箇所を抄出しておく。

「二十七年、穆公卒、弟殤叔自立、太子仇出奔。…殤叔三年、周宣王崩。四年、穆侯太子仇率其徒襲殤叔而立、是爲文侯。文侯十年、周幽王無道、犬戎殺幽王、周東遷。…三十五年、文侯仇卒、子昭侯伯立。昭侯元年、封文侯弟成師于曲沃。曲沃邑大於翼。翼、晉君都邑也。成師封曲沃、號爲桓叔。…桓叔是時年五十八矣。好徳、晉國之衆皆附焉。…(昭侯)七年、晉大臣潘父弑其君昭侯、而迎曲沃桓叔。桓叔欲入晉、晉人發兵攻桓叔。桓叔敗、還歸曲沃。晉人共立昭侯子平爲君、是爲孝侯。孝公八年、曲沃桓叔卒、子鱓(せん)代桓叔、是爲曲沃莊伯。孝侯十五年、曲沃莊伯弑其君晉孝侯于翼。晉人攻曲沃莊伯、莊伯復入曲沃。晉人復立孝侯子郄爲君、是爲鄂侯。鄂侯二年、魯隱公初立。鄂侯六年卒。…晉人共立鄂侯子光、是爲哀公。哀公二年、曲沃莊伯卒、子稱代莊伯立、是爲曲沃武公。…曲沃武公已即位三十七年矣、更號晉武公。」

西周末から春秋初にかけての晉は、翼(よく)に都した穆侯の子文侯(名は仇)の流と、曲沃(きょくよく)に拠点を置いた文侯の弟桓叔(名は成師)の流との内部対立状態が数世代に渡って続いた。《晉世家》では、曲沃の武公が正式に晉侯となるまでは、基本的に晉(翼)の文侯・昭侯の流の紀年を用いている。《竹書紀年》ではこれが、「莊伯十二年、翼侯焚曲沃之禾而還」(《水經注・澮水》所引《竹書紀年》)のように、翼に都した晉の昭侯の後、曲沃に都した莊伯(武公の父)の流の紀年が用いられている。以後、《紀年》は翼に都する晉侯を「翼侯」と呼ぶ。因みに《左傳》における晉の記事は隱公五年に初見するが、ここでも「曲沃莊伯以鄭人・邢人伐翼、…翼侯奔隨」とある。但し、《左傳》ではこのほかに、「翼九宗五正、頃父之子嘉父逆晉侯于隨、納諸鄂、晉人謂之鄂侯」(隱公六年)、「曲沃伯(武公)誘晉小子侯殺之」(桓公八年)のような例もある。

【注10】 《春秋・隱公元年》の正月は、ただ「元年春王正月」と記すのみで記事はない。恐らく、《春秋》や《左傳》では隱公元年三月に繋けている杜預《後序》後文所引《紀年》の「魯隱公及邾莊公盟于姑蔑」という記事が、曲沃莊伯十二年の正月に繋けられていたのだろう。これを杜預は所謂「三正説」(三代の正朔―つまり夏・殷・周の暦)における「周正」と「夏正」として解釈したものと思われる。「三正」の暦の具体的な違いは、《史記・暦書》に、「夏正以正月、殷正以十二月、周正以十一月」とある通り、正月がひと月ずつずれるところにある(※「戦国紀年概説〔八〕」参照」)。《春秋》の暦が「周正」を用いているというのは、《左傳・隱公元年》「王周正月」や、《公羊傳・隱公元年》「『王』者孰謂。謂文王也」などによるもの。つまり《紀年》は、「周正」を用いている《春秋》や《左傳》に対して、記事が二ヶ月前にずれることから「夏正」と解釈されたのである。「建寅」とは、北斗の尾(建)が寅の方位を指している意。殷正は「建丑」、周正は「建子」となる。つまり、北斗が寅の方位に向いている時をとしはじめ歳首とするのが「夏正」である。(※以上、三正対照表参照。猶、白抜きは歳首。「顓頊(せんぎょく)暦」は秦で採用された暦で、夏正をベースにしつつ、十月を歳首とするところに特徴がある。顓頊暦の「正月」は、始皇帝以降はその諱「政(正)」を避けて「端月」と呼ぶ。湖北省荊州關沮周家臺30号秦墓出土「二世皇帝元年暦譜」などの例がある。)
歳星の位置 建亥 建子 建丑 建寅 建卯 建辰 建巳 建午 建未 建申 建酉 建戌
周正 12 正月 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11
殷正 11 12 正月 2 3 4 5 6 7 8 9 10
夏正 10 11 12 正月 2 3 4 5 6 7 8 9
顓頊 10 11 12 正月 2 3 4 5 6 7 8 9
← 最大3ヶ月ずれる → (※…歳首月、…冬至月。)
【注11】 「魏國史記」は、魏の史官の記録。「史記」は史官の記録の一般名詞で、固有の書名を指すものではない。「春秋」も本来は史官の記録を意味する一般名詞で、《墨子・明鬼下》に「周之春秋」「燕之春秋」「宋之春秋」「齊之春秋」などが見え、魯の《春秋》以外にも、春秋・戦国の諸国に史官の記録の類いが存在していたらしい。猶、《紀年》との関係では、《孟子・離婁下》の「晉の《乘》、楚の《檮杌》、魯の《春秋》」という記述が注目されるが、これまでのところ、《竹書紀年》を孟子のいう「乘」と見なすことには、否定的な意見が大勢を占めるようである。
赧王16
昭襄王8
哀王20
襄王13
武靈王27
懷王27
昭王13
湣王25
【注12】 《史記・六國年表》の引用(左表参照)。

口語訳

太康元年(280)三月、呉の寇乱をようやく平定し、余(わたし)は江陵より襄陽に帰還して、甲(よろい)を解いて兵を休めた。そこで(先儒の《左傳》の)旧意を重ね拾って、《春秋釋例》及び《春秋經傳集解》を修成した。

(《釋例》《集解》の撰定を)ようやく終えると、たまたま汲郡の汲県に、その境内の古い陵墓をあばく者がいて、(そこから)大量の古書を得た。(それらの古書は)皆、簡冊に科斗文字が(書かれて)あった。冢をあばいた者は、(古書に対して)意に介さなかったので、(簡冊は)往々にして散乱していた。科斗の書は久しく廃絶していて、推しはかっても、その全ては通訳できなかった。

(汲冢の古書が)記している文書は、おおよそ七十五巻で、その多くは(簡冊が)破砕し、(内容が)怪妄(いつわり)で、釈読しても(内容を)知ることができないが、(そんな中でも)《周易》と《紀年》は最も明晰であった。

《周易》の上下篇は今とまったく同じで、別に陰陽の易説があるものの、(孔子が著したとされる)〈彖傳〉〈象傳〉〈文言傳〉〈繋辭傳〉は無い。恐らく、当時、仲尼(孔子)がこれら(の易伝)を魯で制作して、なお未だそれらを遠国に伝播していなかったのだろう。

汲冢書の《紀年》の篇は、夏・殷・周より書き起こしているが、みな三代の王の記事ばかりで諸侯国の別はない。ただ、特に晉国(の事)のみを記して、(西周末の)殤叔(しょうしゅく)より書き起し、次いで(殤叔を襲って立った)文侯・昭侯、そして(昭侯の子、孝侯に反いた)曲沃(きょくよく)の莊伯の代に至っている。曲沃の莊伯の十一年十一月(の記事)は、魯の隱公の元年正月であった。(つまり《紀年》は)みな夏正建寅の月をもって歳首(としはじめ)としている。(晉の)紀年を編むこと相次いで(やがて)晉が滅びると、(分裂した韓・魏・趙の中でも)独り魏の事柄のみを記し、下(しも)は魏の哀王の二十年に至るので、思うに(《紀年》は)魏の国の史官の記録なのであろう。(下限の)哀王二十年を推して(他の諸国と)比較すると、大歳は壬戌にあり、この年は周の赧王の十六年、秦の昭王(昭襄王)の八年、韓の襄王の十三年、趙の武靈王の二十七年、楚の懷王の三十年、燕の昭王の十三年、齊の湣王(びんおう)の二十五年にある。その上(かみ)は孔丘(孔子)の卒去から百八十一年、下(しも)は今の太康三年(二八二)を去ること五百八十一年。(魏の)哀王は、《史記》では襄王の子、惠王の孫である。惠王は(在位)三十六年で卒去し、それから襄王が立ち、(襄王は)立って十六年で卒去し、それから哀王が立っている。(しかし汲冢の)古書《紀年》の篇では、惠王の三十六年で改元して(再び)一年より始まり、(その後)十六年に至って、それから「惠成王が卒去された」といっているので、(「襄王」の在位十六年は)つまり「惠王」のことである。恐らくは、《史記》が誤って「惠」王と「成」王の在世を分割し、それによって(「成王」を)後の王の紀年としてしまったのだろう。哀王は二十三年で卒去しており(《紀年》の末年では未だ在世中である)、故に特にその諡をいわずに、これを「今王」という。《紀年》の著書の文意は、大いに《春秋》の経文に近似し、《紀年》を推しはかることで、昔日の国史・策書の常態を窺いみるに足りよう。

初版:2002,9,17
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制作・著作:秋山 陽一郎
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