・ 錯簡と脱簡 竹簡の順番の転倒と脱落

・ 錯簡・脱簡とは? 竹簡の順番の転倒と脱落

策書の長所は編集の利便性にありますが、これはそのまま短所にも繋がっています。竹簡の順番を任意に変更できるということは、配置する順番を誤ってしまうリスクとも常に隣り合わせになっているからです。こうした竹簡の誤配置は実際よくあったようで、これを一般に「錯簡」といいます(前漢末の劉歆はこれを「間編」と呼んでいます)。ちなみにリスクは何も誤配置だけでなく、策書の中の一部の竹簡が脱落することもしばしばあったようで、こちらは古くから「脱簡」と呼ばれています。具体的な事例については、前漢末に当時あった書物をほとんど網羅的に整理した劉向が、《尚書》という書物(五経の一つで、わが国では一般に「書経」と呼ばれている書物のこと)を整理した時の記録がちょうど残っているのでそれを見てみましょう。

劉向、中古文を以て歐陽・大小夏侯三家の經文を校し、《酒誥》は簡一を脱し、《召誥》は簡二を脱す。率(おほむ)ね簡の二十五字の者は、脱も亦た二十五字あり、簡の二十二字の者は、脱も亦た二十二字あり。(《漢書・藝文志・六藝略・書家》)

この記述によれば、劉向が実見した宮中所蔵の《古文尚書》には、《酒誥》という篇に 1枚の脱簡が、また《召誥》という篇にも 2枚の脱簡があったとあります。さらに 1簡あたり 22字前後で書かれている策書の場合は、脱簡する時もほぼ 22字単位で字が抜け落ちているといい、一応、これらの脱簡が認められる部分の欠落した字数を数えてみると、ほぼ竹簡 1枚あたりの容字数に相当していたようです。実はこの劉向の記録を裏付けるかのような事例が司馬遷の《史記》の中にあります。

史記・殷本紀尚書・湯誓
湯曰、「格女眾庶、來、女悉聽朕言。匪台小子、敢行舉亂、有夏多罪、[24]王曰、「格爾衆庶、悉聽朕言。非台小子、敢行稱亂、有夏多罪、[22]
予維聞女眾言、夏氏有罪。予畏上帝、不敢不正。今夏多罪、[22]天命殛之。今爾有衆、汝曰『我后不恤我衆、舍我穡事、而割正夏。』[24]
天命殛之。今女有眾、女曰、『我君不恤我眾、舍我嗇事、而割政。』[23]予惟聞汝衆言、夏氏有罪。予畏上帝、不敢不正。[18]

上に掲げた表は、現行の《尚書・湯誓》(殷の湯王が夏の桀王を伐つ際に立てた誓)の文(右側)と、それに対応している《史記・殷本紀》中の《湯誓》の引用文(左側)です。これを見る限り、司馬遷が見た《尚書》が竹簡 1枚あたり 22~24字で書かれていたことと、現行《湯誓》との間に錯簡が見られることが判ります。このことを指摘したのは《說文解字注》の著者として知られている清の段玉裁ですが、奇しくも一簡あたりの字数が、劉向が言及している《尚書》の一簡あたりの字数とほぼ同じ 22~24字である点も非常に面白いですね。

この《尚書・湯誓》の例などはまだわかりやすい方で、先秦古文献では《墨子・備城門》や《商君書・境内》など、錯簡や脱簡が原因で内容が非常に読みにくくなってしまっていると思われる篇もあります。この両篇ほど混乱してしまうと、対校資料なしでの復元は容易ではありませんが、それでも可能な範囲で幾つか復元を試みた成果がこれまでに提示されています。

・ 錯簡・脱簡予防策 武威漢簡《儀禮》の字数・序次管理モデル

このような錯簡・脱簡は日常的に起こりうることでしたが、中にはこうしたリスクを回避するために工夫を凝らす者もいたようです。甘肅省武威の磨咀子(まそし)から出土した後漢最初期の写本と見られる《儀禮》は、以下のような、かなり厳格な書式を備えた策書となっています。(右下の復元イメージ併照。)

武威漢簡《儀禮》
  1. 4本の緯編(よこいと)で仕切られた 3段組の策書に対し、1段あたり 20字、3段で都合 60字と字数がほぼ統一されている。
  2. 篇末に一篇の総字数が掲げられている。
  3. 簡の最下部にノンブル(番号)がつけられている。

このようにしておけば、字数や簡の順番の把握も容易に行え、錯簡や脱簡を未然に防ぐことができます。とはいっても、ここまで念の入った予防策が採用されている策書は、現在のところこの武威漢簡《儀禮》が唯一無二の事例であって、他の策書や帛書の多くは、篇末に一篇の総字数を掲げるのがせいぜいです。